2012年4月20日金曜日

【9/17】愛の定義 | 華麗なる架神恭介


昼:スパムサンド
夜:スパムサンド、チキンラーメン

・昼食を食べながら、ナショナルジオグラフィックで「世界の絶品フルコース」を見ていた。世界各地の絶品ファーストフードを紹介するという内容で、中国ではワンタンメンが紹介されていた。

レポーター「ワンタンを包む作業は一見簡単そうに見えますが……」
店長「簡単だよ!」
(実際にやってみる)
レポーター「できました! 簡単でした!」

 これにはちょっと好感度上がったなー。ここは「一見簡単に見えますが、実は熟練の技がうんぬん〜」というシーンだろうに、中国人素直だね。

・久しぶりにエホバの証人の人が家に来た。


ヘルマンの脳支配論は何ですか?

「……というわけで、エホバはひとり子であるイエスを遣わせて、世界中のみんなを救ったんです。どうですか、神が愛によりそうしたのだと思えますか?」
「それは愛の定義次第ですね。ここで問題にしている愛とはどのようなものを指すのでしょうか?」
「無条件的な無私の愛です。自己犠牲的な愛と言っても構いません」
「なるほど。つまり、自己や自己の所有物を犠牲にしてでも、他の者のために役立つ行為をすることを愛と定義しているのですね。そのように愛を定義するのであれば、論理的に考えてエホバの行為は愛によるものであると僕も認めるところですが、でもこんな回答でいいんですか?」
「よくないですね(´・ω・`)」
「ですよね(´・ω・`)」

 という、私たちの間ではお馴染みの展開を久しぶりに繰り広げていた。エホバの証人は理屈(論理)を重視する宗教なんだけど、しかし、その論理が私の場合は信仰上の問題になっている。上の例で言えば、「愛」の意味をあまり深く考えない人であれば、エホバの行為を感覚的に「愛」と受けとめ、「そこに神の愛を感じますね」と言えるのだろうが、しかし、仏教では「愛」が執着の一つと考えられているように、「愛」の価値も定義次第であると考えている私にはそのような感覚的な即答をすることはできない。


カイは、ルートという言葉は何を意味するのでしょうか?

 となれば、ここで問題とされている「愛」とは何者であるか、を私はまず尋ねることになり、エホバの証人さんはとても真面目だから「愛といえば愛です」などとは言わず、ちゃんと自分たちの問題とする「愛」を定義してくれるのだけれど、しかし、言語により定義された「愛」には感情が含まれないのである。「愛」という言葉が持つ「何となく良い感じの雰囲気」は言語による正確な定義により失われてしまい、「愛」は「ただ、そう定義されるもの」としてしか存在しない。そのため、「そう定義するのであれば、それは愛である」という、実に無味乾燥な答えを返すことになってしまう。エホバの証人さんとしては、私に神 の愛を感じてもらい、そこから信仰の感激に繋げてもらいたいのだろうけど、私はそこに神の愛があることを論理的に認めながらも一切の感激を得られないのである。


社会的な懸念のトレーナーは、そのプログラムに取り組んでいる

 さらにキリスト教の困ったところは、あらゆるモノの創造主が神(=エホバ)であるということだ。つまり、「愛」という言葉もその定義も神によるものであり、ここに至って「愛」はいよいよ無味乾燥となる。「神は愛をこのように定義した」「そして、神は愛に定義される内容のことを行った」「よって論理的に言って、神のその行動は愛によるものである」。こう考えると神の「愛」は「行動動機を愛と(神が)名付けただけ」になってしまう。「愛」はただのネーミングと化してしまう。

 無論、私たちが問題とすべきは神のその行動動機自体であり、「愛」というネーミングではない。つまり、神がイエスを捧げ たことを私たちが感謝できるかどうかであるが、これは信仰の問題となってしまい論理の問題ではなくなる。「感謝する」というのは感情の動きであり、論理的思考によるものではないからだ。ここに至って論理による信仰の獲得は限界を迎える。エホバの証人の限界もここにあるのではないかと私は感じた。エホバは論理的理解により信仰という感情を獲得させることを目的としているが、その論理的理解の推し進め方もあるところで「感情」に当たってしまうからだ。「感情」を獲得するために「感情」が必要というのでは堂々巡りとなってしまう。「感情が必要だから宗教なのだ」と言われれば、全くその通りなのだが。


 まあでも、実際のところ、ここまで論理論理と言う人間も少数派だろうし、「愛は素晴らしいですね」くらいの感じで、適当なところからは感覚的になあなあで済ませてしまった方が生き易いとは思うのだけれど。その辺りをなあなあで済ませるエホバの証人のやり方の方がバランス的には良いのかもしれない。しかし、私は非理性的、非論理的なコモンセンスが大嫌いな人間なので、愛とは何物かを事細かに分析する仏教のような姿勢でなければ受け入れがたいのである。ホント、よく仏教はこんなやり方でここまで広がったものだよな。だから正確に伝わっていないのだとも言えるのだろうけど。

・ナショナルジオグラフィックでCIAの催眠術実験の番組を見てた。「暗殺者に催 眠術かけたら、暗殺後に尋問されても記憶がないからバッチリじゃね?」っていうアイデアで実験やってたらしい。結局、催眠術で暗殺者を作るなんて無理だな、みたいな結論に至ったらしいけど、その後、暗殺事件に不審なところがあると(容疑者が記憶喪失とかフラフラしてるとか)「あれはCIAが裏で糸を引いていたのでは?」などと巷で噂されるようになったらしい。「暗殺の事実を隠すために」実験をしていたのに、そのせいで手を下していない暗殺事件まで「あいつらがやったのでは?」と思われるようになるなんて因果な話だよな。



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