ビーチベスパー
去る22日(金)のベスパーはビーチベスパーでした。本学から車で30分ほどの海へ学生と教職員が60名ほど参加してのベスパーでした。CMCの用意してくれたカレーを食べ、大自然の中でベスパーを持ちました。例年のように海に入る学生たち、またお互いに海に落としあってびしょびしょになりながらも楽しい交わりの時を持ちました。自然の中で神様と交わり、友人たちと交わる幸せな時。またこのような機会があれば、みなさんもぜひ参加してみてください。
MATSURI ~ONE~ スミルナOpen House
ユースワーシップ
23日(土)大河平記念ホールにおいて近藤光顕先生によってユースワーシップがもたれました。隣のグレンジャー講堂では神学科長:東出克己先生によって教会員のための礼拝がもたれました。それとは別にもたれているこの大河平記念ホールでのユースワーシップ。キリスト教の背景が無い学生の皆さんにもキリスト教とは、あるいは聖書とは、人生とは、神様とはなんだろうかと考えることのできる時間となります。ぜひユースワーシップに皆さんいらしてください。
看護学科3年生特別讃美歌の模様
春季宗教週間5
牧師室&CMCニュース
~ 2009年・春季宗教週間特集号⑤ 朝夕のお話から ~
◇5月13日(水) 春季宗教週間第3日目 朝
◎テーマ:「あなたを知っておられる神」
今朝のお話に入る前に、皆さんからの頂いた質問について考えてみたいと思います。
質問:「神様は、どうやって生まれたのですか? 生まれるのですか?」
これは、答えるのが難しい質問です。 「わかりません」と答えるのが正直なところかもしれません。
あえて答えるなら、神様は、生まれる必要がなかった、ということでしょう。なぜなら、神様は、永遠の昔から存在しておられるからです。
英語で、「生まれた」ということを、I was born と言います。これは、受動態です。自分の力で生まれたのではなく、何かの力によって生まれさせられたということです。
出産で、一番大変なのは、母親です。まさに、「産みの苦しみ」です。わたしの3人の子供は、皆、助産院で生まれました。出産で、一番情けないのは、父親です。せいぜい、妻の手をとって励ますぐらいしかできません。
誕生で、一つ言えることは、自分の力で生まれてきた人はいない、ということです。
母親をはじめ、何人もの人々の助けがあって、生まれてきたのです。
しかし、神様は、何者かの助けによって生まれる必要はありません。
神様は、(他の助けを借りずに)自ら存在なさる唯一のお方だからです。 旧約聖書に登場するモーセは、出エジプトのために、神様からの使命を直接受けるのですが、その場面で、神様は、「『わたしは、有って有る者』、『わたしは有る』というかたが、わたし(モーセ)をあなたがたのところへつかわされた」と言え、と言っておられます。(出エジプト記3章14節)
わたし達は、自分で存在することは不可能です。ですから、「わたしは有る」ということはできません。わたしたちは、自分の存在を、他者、また神様に依存しています。一人で生きることはできないのです。
どんな形でも、父母がいなければなりませんでした。また、食べ物でも、誰かが育ててくれたからこそ、口に入るのです。そこに至るまでに、何人もの手を通ってきています。 一枚のシャツも、何人もの手を経て、わたしたちの手に入るのです。
一人で生活できても、ひとりで生きることはできません。それを思うと、もっと日々の生活の中で、感謝すべきではないでしょうか。
何より神様に依存し、今与えられ、生かされていることを忘れないようにしたいものです。
しかし、神ご自身は、唯一、自ら存在なさる方なのです。 (これで少しは答えになったでしょうか)
さて今朝のテーマに入ります。
「神様は、私たちを本当に良くしっておられます」
娘が生まれたことについて話しました。この4月で小学校4年生になります。5,6年前に広島三育中学校や北浦三育中学校で、祈祷週の講師として行った時に、会った人たちがここにおられると思います。それだけ、時が経ったのですが、実感がありません。
4年生になった娘にとって、自分は父親でありながら、娘のことを知らないと思うことがあります。
私の知らない部分もありますし、娘も知られたくないことがあるかもしれません。夫婦、友人関係も同じではないかと思います。
自分でも、自分のことがわからずにいるのです。 ところが、神様は、誰よりも、あなたのことを知っておられます。 詩篇139:1-3,14(口語訳)を参照。
私たちは、神様の前では、裸同然です。隠せるものはありません。 私たちは、お互いの心の中は見えません。もし見えたら、人前に出られなくなるでしょう。
最近、犯罪やテロの問題があり、防犯カメラがあちこちに見られるようになりました。
都内でも、あちこちにありますが、防犯というより、監視カメラといった感じがなくもありません。
いつも、誰かが自分を見ている、これは心地の良いものではありません。
最近、GPS機能の携帯電話を子供に持たせ、子供が、いつ、どこにいるかをチェックするというのがあります。親がそこまでしないと、不安を払拭できない、そんな時代になりました。
しかし、すべてを知る神様の前では、防犯カメラもGPS機能付の携帯も必要ありません。
神様の視線は、何か悪いことをしていないかを調べる、監視の視線ではありません。
もっとやさしく、とてもあたたかいまなざしです。
神様は、また、あなたの名前を知り、呼んでおられます。
イザヤ書43:1,2で、神様は、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」と言われます。
個人個人の名前は、他人と区別する存在として大事なものです。
インターネットで検索して、自分の名前を入力してみたことがおありでしょうか。全国で、同姓同名ということが結構あるものです。私の場合は、あと2人おられました。一人は、香川大学の教授でした。何だか不思議な感じです。それでも、自分自身であることを認識することができます。
3人の子供に名前をつけましたが、どんな名前にするか、悩みました。
私は小学校の頃、自分の名前が大嫌いでした。
当時、「やまぐちくんちの つとむくん」という歌があって、替え歌にされたからです。
大人になって、留学先でも、名前のことでこんな経験がありました。ニュージーランドでは、「つとむ」の「つ」が発音できず、ストームになるのです(嵐ですよね)。
ルーベックというお医者さんは、人は、名前を呼ばれることによって作られる、と言っています。
一生の間、何度も何千回も、呼ばれ、形作られていくのです。(イザヤ49:1,45:5)
妻が子供を妊娠中に、子供の名前を呼びました。しかし、神様も呼んでおられるのです。上の聖句にあったように、「母の胎内」にいるときから。
助産院で3人共生んだのですが、希望さえすれば、誕生の時まで、性別を知らずにいることもできます。それで、わたしたちは、そちらを選びました。どちらでもいいように、名前を考えていました。生まれたとき、顔を見て考えよう、というわけです。 でも、今は、妊娠のある時期になると、男女の判別が可能となりました。でも本来はわからないものです。 そして、わからないとき、神様は、すでに名前を呼んでおられる、これはスゴイことです!
カトリックの方で、教育者でもある渡辺和子先生と言う方がおられます。彼女は、名前を呼ぶことの大切さについて述べておられます。最近、家庭も、学校でも、名前を呼ぶことが少なくなりました。
私の妻は、今でも、私を、名前で呼んでくれます。妻に感謝しています。
私も家内を名前で呼びます。そのせいでしょうか、3歳になる子供が妻を名前で呼ぶことがあります。
マルチン・ブーバーという人が、「人生は、出会いで決まる」といいました。
人間には2つの関係があると言います。 一つは、我と汝(なんじ)、もうひとつは、私とそれ、です。
人間は、「あなた」という人格的な交わりがなければ、生きていくことはできません。 しかし、今は、人が物のように扱われる時代です。人の心は冷たく、人間らしさを失う時代です。
何年か前に、実の母親から、ずっと虐待を受けて育った人の話を読みました。
一番心につきささったのは、一度も名前を呼ばれたことがない、ということでした。その子は、'it'(イット、それ)と呼ばれていました。(itと呼ばれて、が日本語のタイトルでした)
本当に苦しかったと思います。今は幸せになっておられるそうですが、よくぞ、生きてきたな、と思います。
昨年、テレビの特集で、アメリカの刑務所での更生プログラムを放映していました。
受刑者一人一人に、犬の世話をさせます。 ある囚人がもらった犬は、飼い主から捨てられた犬でした。
最初は、ふてくされて、餌を与えても食べず、水ものみませんでした。
ある日、刑務官がアドバイスします。「この犬の名前を呼んでみろ」と。彼は犬の名前を呼びます。
その時、犬は初めて反応をしまします。呼び続けると、餌をたべるようになりました。やがて囚人と犬の間に心の交流が生まれ、お互いに持っている傷が癒されて行きました。 このプログラムに参加して出所した人の再犯率は、ゼロだそうです。 この話を通して、名前を呼び合う大切さを教えられました。
マルチン・ブーバーは、「人生は出会いで決まる」と言いました。
神との出会いは、決定的な出会いです。自分の全存在が神に知られていることを知ることです。
髪はあなたの名前を日々、読んでおられます。あなたの強さ、弱さ、失敗も成功も、罪も、みんな知っておられます。その上で、あなたを愛しておられるのです。
ですから、神様に知られているということは、ありがたいことであり、大きな励ましです。
人生には、喜びや幸せ、悲しみや悩みも経験するでしょう。
神様は、あなたのそれらの経験を、自分のことのように経験し、わかってくださるのです。
へブル人(ヘブライ人)への手紙4:15に、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」と書かれています。
この「大祭司」とは、キリストのことです。イエス・キリストは、人の姿をとって、この世に来られた神であります。そしてキリストは、人が経験するすべての試練を、経験されました。十字架という最も苦しい試練をも。
イエス・キリストは、ご自分と私たちの関係を、羊飼いと羊にたとえておられます。
ニュージーランドという国は、国民の数よりも羊の数のほうが多いのです。私がお世話になった人は、200頭の羊をもっておられましたが、その一頭一頭を知っており、見分けていました。どうやって見分けるのか、聞いたことがあります。 その人が言うには、欠点を見て見分けるというのです。
片方の足に傷があるとか、お尻に禿があるとか・・・。
神様も、私たちの欠点や弱さを通して、私たちを知っておられます。神様は、あなたの弱さを支え、守り助けたいと思っておられます。 この神様の呼びかけに、ぜひ答えてほしいと思います。
三育学院教会牧師室(内線236)
牧師携帯 090-6342-3104
春季宗教週間4
K-6は何を参照してくださいです。
牧師室&CMCニュース
~ 2009年・春季宗教週間特集号④ 朝夕のお話から ~
◇5月12日(火) 春季宗教週間第2日目 夕
◎テーマ:「あなたを愛される神」
「北の国から」というテレビドラマをご存知の方も多いのではないでしょうか。20年以上の家族のきずなを描いたドラマです。 脚本家の倉本聰さんが、20年前に北海道の富良野に移住し、大草原の中の廃屋を1軒1軒訪ね歩きました。ある家は、食事の状態がそのままになっていました。理由はわかりませんが、家族が、食事の途中で、そのままにして出て行かなければならない事情があったのでしょう。
このドラマ「北の国」は、反響を呼び、「富良野塾」という若者の集まりが持たれるようになりましhた。 それは、生きることを共に考える塾です。その塾で、「あなたにとって、なくてならぬ生活必需品は何ですか」という質問をしたところ、1位は、水、2位がナイフ、3位は、食料でした。
同じ質問に対して渋谷の若者は、1位お金、2位ケータイ、3位テレビ となりました。
(生活の場による)大きな考え方の違い、また、生き方に対する価値観も違うでしょう。しかし、共通しているものがあります。それは、両者とも、「物」と選んでいる、ということです。
人間が生きていく上で、衣食住は必要です。
しかし、聖書は、それだけでは生きられない、と言います。マタイによる福音書4:4にイエス様は、旧約聖書から引用して、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出るひとつひとつの言(ことば)で生きるものである」と言われました。
「パン」は、人間の生活に必要なすべてを象徴しています。ここでキリストは、生活に必要な色々なものがそろっていれば生きていけるか、というと、そんなに単純ではない、と言っておられるようです。
ただ生きるのなら、物があれば十分かもしれませんが、本当の意味で生きるには、物だけでは絶対に生きることはできません。
ある男が、女性のスカートをカッターナイフで切り取り、警察に逮捕されました。これは犯罪行為です。 しかし、彼には、悲しい背景がありました。 就職した会社で懸命に働いていましたが、病気になり、入院生活を余儀なくされます。やっと復帰しましたが、職場は、以前のようには迎えてくれませんでした。同期の桜は、みな出世していき、彼は居場所を失っていきました。そんな彼が、一瞬、暖かさを感じる時が、満員電車の中で女性にくっつくことでした。誰かと触れ合っていたい、そうした中で、スカート切りをしたのでした。それは64回に及びました。この男性を、「変質者」として一蹴することは簡単です。
ポール・トゥルニエは、「人は、少なくとも、独りの人間に愛され、理解され、必要とされているという実感をもたずに生涯をまっとうすることはできない」と言っています。
男性が心の中で求めていたものは、この「ぬくもり」でした。
キリストは、「人はパンだけでは、生きることはできない」と言われました。
人が本当に生きるためには、神様からの語りかけを聞く必要があるのです。聖書は、一見分厚い本ですが、そこにある神様の語りかけは、シンプルです。すなわち、神様ご自身が、いかに私たちは愛しておられるか、ということです。
イザヤ書43章4節は、新改訳聖書では、「わたしの目に、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」となっています。
なぜ、神様は、こんなにまで、わたしたちを愛して下さるのでしょうか。 それは、神様が私たち一人一人を愛しておられるからです。
私の携帯電話には、このストラップがついています。昨晩の特別賛美歌で、「君は愛されるために生まれた」という歌を歌って下さいました。愛されたからこそ、生まれたのです。そして今も愛され続けているのです。
神様の愛の一つの特徴は、それが「無条件の愛」だということです。
人間の愛は、常に条件付です。愛する価値があるときは愛するけれども、しかし、それがなくなるとやめるのです。 しかし、神様の愛はそうではありません。どんな時でも、一方的に愛を注がれるのです。
ある牧師の体験です。
地方教会の牧師としていたとき、一人の女性が、腕に子供を抱いて、やってきました。母子共に、口唇口蓋裂という病気でした。
この女性の話によれば、ご主人と結婚しようとしたとき、姑(ご主人の母親)さんが猛反対しました。
その最大の理由は、彼女が口唇口蓋裂だということでした。二人は、しゅうとめの反対を押し切って結婚します。そして、第一子が生まれます。幸い、この子は、健常児でした。数年後に、2人目が生まれます。 口唇口蓋裂でした。恐れていたことがおこってしまったのです。最初の子供の時には黙っていたしゅうとめでしたが、烈火のように怒り、今まで以上に冷たく接するようになりました。また、世間に恥ずかしいから、絶対に外に連れて出てはいけない、と命じました。その子を、抱いてもくれませんでした。いっそのこと、2人で死んだほうがましだ、と考えつめ、思い余って教会の門を叩いたのでした。
女性の話を聞いていた牧師は、彼女に、テレビの一つの番組で放映していた話をしました。番組の中で、水俣病にかかった子供の母親にレポーターが聞いていました。「母親として、この子に望むことはありますか?」 すると母親は、「一生に一度でいいから、『おかあさん』と呼んでほしい」と答えました。 レポーターの言葉が続きます、「自分の子供と比べて、ほかの子供がうらやましいと思ったことはありませんか?」 それに対して、母親は言います、「ありません。この子は、私の子です。
ほかの誰の子供でもありません。私の子供なんです!」
レポーターの質問には、質問者の価値観が働いていたかもしれません。
しかし、母親としては、どんな状況になろうとも、愛するわが子に変わりはなかったのです。
牧師は、この話をしたあとで、母親に言いました、「この子には、お母さんと、お母さんの愛が必要です。この子を愛することによって、あなたもお子さんも生きていけるのです」と。 母親は、涙を流して、この子と生きていきます、と言って帰っていきました。
人間の愛は、条件付です。その条件がなくなると、愛も失われていきます。神の無条件の愛に一番近い愛は、母の愛です。
しかし、今、その母の愛が、あやしくなっています。 聖書は、世界の終末が近づくと、人々の愛が冷えるであろう、と言っています。
人間は、愛する前に、その価値があるか考えます。しかし、神は違います。神は、私たちが、神様の愛を受ける価値があるかどうかを尋ねられません。神様は、私たちを価値ある者とするためにその豊な愛を注がれるのです。
ここに、江本 勝著の、『水は答えを知っている』という本があります。
写真集のような本ですが、著者は、長年、水の研究をしてこられた方です。著者は、雪の結晶は2つとして同じものはない、という文章を読み、水の結晶に関心をもつようになります。
結晶ができるのは、氷がとけはじめるほんの数十秒の間だそうです。その結晶を、写真に取り続けるうちに、言葉をかけたり、音楽を聞かせたりすると、結晶の「表情」が変わることがわかりました。
クラシック音楽と、ヘビーメタルの音楽を聞かせた時、また、天使と悪魔の言葉を見せただけでも、あるいは、「やりなさい」と優しく「しようか」と言うときなど、それぞれの水の表情が違うのです。
小学校の実験で、「ありがとう」というと、(写真のような)美しい形になりました。ところが、「ばかやろう」と言うと、(しゃしんのような)崩れた形の結晶になりました。
考えにくいことですが、その通りなのです。 まさに、「水は答えを知っている」のです。
人間の体は、かなりの部分が、水でできています。どういう言葉を聞き、話しているでしょうか。
私は、これを聞いて反省させられました。毎朝、「早くしなさい」と子供に言っていますが、その代わりに、やさしく「早く、しようね」と言うほうが良いと思いました。
親が子供に語りかける言葉の8割は、指示的・否定的な言葉と言われます。そういう誤ったものに気づかせ、回復させてくださるのが神様の愛です。(1ヨハネ4:9-10 口語訳)
神ご自身が愛です。ですから、真の愛は、神様から出てくるのです。
キリスト教が、宣教師によって、日本に伝えられたのは、およそ450年前のことです。
そのときに、神様の愛を、「ご大切」というふうに表現しました。
当時は、封建時代で、人が不当に差別されていた時代でした。
そのような時代に、神様の前では、誰もが「ご大切」であると教えたのでした。
今も変わりません。
私たちを本当の意味で生かすために、神様は、み子をつかわし、十字架で身代わりにならせて下さったのです。
先日、ダグ・バチェラーの話をしました。
カリフォルニアの洞窟で、ごみをあさっている人を見ました。そのとき、彼は、あんな汚いことは絶対にしない、と思いました。しかし、やがて、自分も同じことをするようになるのです。 罪というのは、ごみのようなもので、慣れてくると、そこから抜けられなくなる、と彼は言っています。
私たちが罪の中にいるとき、こんな私たちを愛し、そこから引き上げるために、イエスを身代わりにして下さった、ここに愛があります。
本当に愛がなければ、代って死ぬことなどできません。
昨年5月に中国の四川省で大地震があったことは記憶に新しいことです。
悲惨な出来事の中で、感動するエピソードがありました。
ある母子が、瓦礫(がれき)の中から救出されました。母は、すでに死んでいましたが、赤ちゃんは、母親が身を挺して守ったので、生きていました。毛布に包まれていました。その中に、携帯電話があり、そこに、赤ちゃんへの最後のメッセージが記録されていました。
「お母さんにもしものことがあったとしても、お母さんが、あなたを心から愛していたことを決して忘れないで下さいね!」 そう書かれていました。
やがてその子が成長したとき、命をかけて救おうとし、守ろうとしたことを知ることでしょう。
イエス様の十字架の死は、まさに、そのようなものなのです。私たちを生かすためい、身代わりと
なって、愛して下さる。それほど、神様から深く愛されているのです。
最後に、もう一度、イザヤ書43章4節を読んでみましょう。
「わたしの目に、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
この神の愛を、心を開いて受け入れてほしいと思います。
三育学院教会牧師室(内線236)
牧師携帯 090-6342-3104
春季宗教週間3
牧師室&CMCニュース
~ 2009年・春季宗教週間特集号③ 朝夕のお話から ~
◇5月12日(火) 春季宗教週間第2日目 朝
◎今朝のテーマ:「あなたを造られた神」
今朝から、聖書の教える神様は、どのような神様かを考えてみたいと思います。
この神様は、私たちと関わりをもってくださる方です。わたしたち一人一人を造られた神だからです。
数年前の新聞にこんな記事がのっていました。
国立天文台の縣 秀彦教授が、10数箇所の小中学校の1700名の生徒を対象に調査しました。それは、太陽と地球の関係に関する調査だったのですが、小学生の4割は、太陽が地球の周りを回っていると答えたというのです。反対ですよね。 でも、約半数の生徒は、誤って理解していたのです。
太陽が中心か、地球が中心か、-それによって、世界観が大きく変わります。
同様に、私たちの日常も、神様を中心とするか、自分を中心とするかで、世界観、生き方が変わります。
大理石は、 ISDテキサスを下回る
聖書の一番はじめの言葉は、「はじめに神は天地を創造された」です(創世記1:1)
新島襄のことをご存知と思います(注、同志社大学の創立者)。彼が留学の準備をしていたとき、ある人が、留学するなら語学だけでなく、その背景にある文化も学ぶようにと、聖書を手渡されました。
その聖書を開いたとき、最初の言葉が、さきほどの言葉でした。彼は非常に大きな衝撃をうけたのです。
すべては偶然ではない、自分の存在も、神の目的のなかにあるのだ、と、この1節の言葉で悟ったというのです。これを知り、この神様と出会い、涙を流して読んだのでした。自分の人生は偶然でなく、確かな目的があることを知りました。
世界の見方に関して、2つの代表的な考え方があります。
一つは、ビッグバンが起こって、アミーバのような生命体ができ、それから徐々に進化して現在に至るという進化論の考え方で、もう一つは、神の存在を認め、目的をもって造られたことを信じる創造論。
この2つの考え方には、共通していることがあります。それは、どちらも説明できない、ということです。結局、どちらを信じるかしかない、信仰の問題なのです。
日本の学校では、進化論が、あたかも証明されたかのように教えられています。
しかし、科学や考古学の発達により、進化論は、もはや理論として成り立たなくなっているのです。
最近のさまざまな考古学などの発見は、聖書の正しさ、創造論を支持するものが多いということです。
実際、科学も、出発点は仮説ですから、その意味では、科学も信仰なのです。科学の最先端の発見などを知れば知るほど、偶然ではなく、すべてのものの背後にデザイナーがいることがわかります。ある人は、その存在は、サムシング・グレート(偉大なおあるお方)と呼んでいます。
ここに私の時計があります。この時計は、昨日はここになかったけれども、今朝起きると偶然ここにあった、そんなことを言っても、誰も信じないでしょう。
この広大は宇宙は、時計よりも、もっと広く繊細であり、そこに見られる秩序は、時計の比ではありません。 しかし、そのような宇宙が、偶然に出来たと多くの人々は信じているのです。
創造論を信じるか、それとも進化を信じるかということは、人生観に大きく関わる選択です。
進化論は、すべては偶然の産物と教えます。一方、創造論は、世界も自分も神の意志によって存在し、明確な目的をもって造られたという考えに立っています。
2年前の新聞記事に、成人式を迎えた若者に、自分の時価総額はどれくらいか、と尋ねたネットでの調査結果がでていました。 518名から答えが返ってきました。 自分の価値をどれぐらいに見積もるか。 皆さんならどうでしょう?
一番多い答えは、「ゼロ(0)円」でした。 自分は、「ただ」だということです。全体の13.5%に当たります。 中には、大きな野心をもったり、無限大と答えた人もいましたが、「0円」と答えた人がはるかに多かったのです。
この記事は、驚きを与えました。おそらく、その背景に仕事がないニートの増大等があるのでは、と分析していました。
それにしても、自分は0円、つまり自分には価値がない、と決めこんでいるとは何と悲しいことでしょう。
人の体を構成する化学物質に分解すると、成人で、中位の釘1本の鉄分、鉛筆9000本分の炭素、30リットルの水、等々、お金に換算すると、せいぜい3000円だといわれます。
この3000円分の化学物質を買い込んできて、ぐるぐる回したら、人間になった、そんなことはありえない話です。
それよりも、人の命は、神様によって作られたと考えるほうが、ずっと合理的ではないでしょうか。
これが聖書が明快に教えていることです。
詩篇139:16に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」と書かれています。
ここに「あなた」とあるのは、神様のことです。
私には3人の子供がいます。長女は今4年生ですが、妻が彼女を妊娠し、出産したときのことをよく覚えています。本当に嬉しかったです。エコーで、あかちゃんの写真を確認し、一日でも早く会いたいと思いました。 妻は、助産院で出産しました。 無事に、生まれた時は、感動して涙があふれました。 妻も娘もいとおしいと心から思いました。 5月10日は、母の日でした。
私を産んでくれた母に、いつも感謝しています。
しかし、聖書は、母を超えた存在があると教えています。あなたが生まれる前から、あなたを見ていたお方があると。
同じ詩篇139篇の13-14節には、神様が、母の胎内で、わたしを組み立てて下さったと書かれています。
皆さんもそうです。皆さんを母の胎内で組み立てた方がおられるのです。
考えてみますと、私たちは自分で男に生まれようとか、女に生まれるとか、日本人に生まれるとか、この両親のもとに生まれようとか、選ぶことはできません。 自分の意志や親の意志を超えたと所でなされた、聖書は、それが神であると言っています。 ですから、一人一人がかけがえのない存在であり、神様の前に無限の価値をもっているのです。
エペソ(エフェソ)2:10に、「わたしたちは神の作品であ・・・る」と書かれています。
私は、この言葉に何度も救われてきました。自信を失い、うちのめされそうになって、何度も死にたいと思ったときもありましたが、そんなときに、この言葉に励まされました。 自分が、この世にたった一人しかない尊い存在なんだ、と知り、もう一度立ち上がる力が与えられました。
ドイツに福祉のモデル都市と言われるベーテルがあります。戦後、一人の日本人が視察に赴きました。一つの施設に案内され、両側にベッドが並んでいる中を進んで行きました。ベッドの上には寝たきりの人だとか、障害者が横たわっていました。一番奥まで来たとき、ベッドの上に何か、丸太棒のようなものがあり、ぎょっとしました。 それは、手も足もない、人間の体でした。身長が53cmしかない、50才の人でした。
赤ちゃんの平均身長が51センチですから、生まれてほとんど成長していないことになります。
話せず、立てず、排せつなどすべて、他の人の手をかりなければなりません。 案内をしてくれた人がこう説明しました。 「この人は私たちにとって宝物です。」と。
第二次世界大戦中、ドイツはヒトラーが政権を支配していました。
彼は、戦争のための人材を確保する際、全国に指令を出しました。「見込みのない障害者や病人を全部安楽死させよ」と。
つまり、寝たきりの人間にお金を費やすのは不経済だから殺しなさい、ただ転がっているだけの人間は無駄遣いだから処分しろ、と命令したのです。
そのとき、この施設で働く、クリスチャンの人たちは、命をかけてこの人を守る決意をするのです。
やがて兵士が検閲に来たとき、彼らは、その人の周りにスクラムを組んでたちはだかり、もしどうしても殺すというなら、その前に私たちを殺してくださいと抵抗しました。この人は、わたしたちの宝なのです、と。
どうしてそこまでしたのでしょうか。 命を賭けてまでも守り通したのでしょうか。
なぜなら、この人が、わたしたちと同じ神様の作品だからです。
だれもが、神様に作られた作品なのです。そして、神様には、「失敗作」はありません。
今は、手造りが減っています。何でも機械です来る時代です。
でも、私たち一人ひとりは、神の「手」によって造られた作品なのです。一人一人、世界でたった一人の尊い存在です。
「蛾」(昆虫の蛾です)の話ですが、世界には、2万種類もの蛾がいるそうです。1種類に何羽いるか、わかりませんが、その一羽、一羽は、人間の指紋と同じように、一羽として模様が同じ蛾はいないそうです。
人間も同じです。一人一人、皆違う存在、神の手によって造られている存在です。たとえ障害をもっていても、です。
マックス・ルケード作の『大切なきみ』という絵本があります。こんなお話です。
木彫りの小人ウェミックスたちが、ある村に暮らしていました。彼らはみんな違っていました。
ウェミックスたちがすることは、毎日、互いにシールをくっつけ合うことでした。才能のある
良い子は、金色のシールが貼られますが、何をやってもだめな者には、ねずみ色のシールが貼られました。 パンチネロもその一人で、ねずみ色のシールだらけの醜い姿になってしまいました。
あるひ、パンチネロは、一人の女の子(ルシア)に出会います。その子は、金色のシールも、ねずみ色のシールも、一枚もついていませんでした。彼女にシールを貼ろうとしても、すぐにはがれおちてしまうのです。
自分もあんなふうになりたいと思ったパンチネロは、彼女に「どうしたらそうなれるんだい」と尋ねます。 すると彼女は、丘の上の木彫り職人のエリに会いに行くようすすめます。
パンチネロがエリの工房へ行くと、エリはパンチネロの名前を呼びます。そしてこう言うのです。
「仲間がどう思おうと構いやしない。わたしはおまえのことをかけがえのない宝だと思っているよ。お前を作ったのは私なんだから。だから、おまえはそのままで尊い存在なんだよ」と。その時に、パンチネロの体のねずみ色のシールが、ぽろっとはがれて、地面に落ちたのでした。
私たちは、お互いの人間関係の中で、良し悪しのレッテルを貼りながら生活しています。でも大切なことは、自分をどう思っているかということではなく、神様がどうおもっておられるかということなのです。 神様は、皆さんを、大切な、特別な存在として見ておられます。 大事なのはそのことを知ることです。 神様に造られ、愛されているということを。
創世記1章27節には、神様が、人を、ご自分に「かたどって(似せて)」造られ� �と書かれています。 花も動物も、すべては神様によって造られました。しかし、「神にかたどって」造られたのは、人間だけです。
私たちは、一人一人、みんな違います。しかし、共通していることは、神様によって造られたということです。 ですから、自分も大事ですし、人も大事にする、そういう生き方ができるのです。家族も、また見ず知らずの人も大切な存在なのです。
どのように私は、言語はスペイン語で言うん
かずや、という名前の人がいました。
30歳を過ぎたとき、1000万円の借金がありました。更生のために牧師のところへ連れてこられました。 彼は、成長ホルモンの問題で、背の低い人でした。自分は、ほかの人間とちがうと、母親を憎んでいました。自分は失敗作と思い込み、存在価値をみとめられず、中学校を卒業後、高校に行かずに働くことにしました。 しかし、低学歴、低身長の彼には、なかなか仕事がみつかりません。
彼は、子供が嫌いでした。 子供は、「大人なのに、どうしてそんなに背が低いの?」など、率直に聞くからです。 20歳を過ぎ、どうせ自分はモテッこないと思った彼は、女性を金で買うことを決意します。 やがて気がつくと、カードローン地獄に陥り、1000万円の借金ができていました。
母親に連れられ、教会の施設に連れてこられ、更生のための生活がはじまります。そこにはいろんな人がいました。
ある日、一人の小学生が、「なんで、お兄ちゃんは大人なのに、そんなに背が低いの」と尋ねます。
またか、と思ったそのとき、ひとりのスタッフが、その男の子に向かって言いました。「おまえは、なぜ、かずやのことを笑うんだ? かずやはなぁ、神様に造られた作品なんや、ともなり、お前と同じや、わかるか!」と。
ともなり少年は、スタッフの真剣なまなざしに、たじたじとして、何度もうなずき、かずやに謝りました。
この経験は、かずやの人生の転機となりました。「子供に、人間の存在意義を教えるために、自分が役になったんだ」
その春の教会のキャンプで、彼は、一日中、走り回り、子供と遊び、人気者になりました。彼は言います、「今、僕は信じている。神さまは、僕のこの体を通して、神様のことを子供に教えようとしておられることがわかりました」と。
その年の母の日に、彼ははじめて、母親にカードを送りました。そこにはこう書かれていたのです。
「お母さん、僕を、こんなからだに産んでくれてありがとう!!」
皆さん、一人ひとりが、神様の作品、神様の宝物なのです。神様に造られ、愛され、生かされている
尊い存在です。 それがわかるとき、あなたらしく生きることができるのです。
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春季宗教週間2
牧師室&CMCニュース
~ 2009年・春季宗教週間特集号② 朝夕のお話から ~
◇5月11日(月) 春季宗教週間第1日目 夕
◎11日、夕方の題:「どのようにして神を知るのか」
今年のゴールデン・ウィークは、不況の影響もあってか、18連休の企業もあったそうです。
そんなに休みがあって、うらやましい感じもしますが、その一方で、かえって暇をもてあましたり退屈に感じたりした人もあったかもしれません。
皆さんは、どうでしょうか?
以前、休暇についての、「日本のサラリーマン意識調査」が行われたことがありました。
それによると、1日休みがあったら何をするかに対しては、「ごろ寝」、1週間だと「国内旅行」、1ヶ月なら「海外旅行」、さらに1年となると、「わからない」という回答でした。 これはお金についても同じ傾向で、1万円なら、「家族と食事」、10万円は「国内旅行」、100万円だと「海外旅行」、そして1千万円では、「わからない」でした。
日本人は、えてして、目先のことしか考えていないのではないでしょうか。人生の目標が、抜け落ちています。
今朝、神様を知ることの大切さについて、3つお話しました。
私たちは、目先のことのみ、やり繰りして過ごすことが多いのです。より深く、自分の人生を考えないで、自分が最終的に行き着くところについては、何の方向性も持っていない。それが多くの人の行き方です。 真の神を知る以外に道はありません。
では、どうしたら、神を知ることができるでしょうか。
ギリシャの詩人に、デモニデスと言う人がおりました。ある時、王から、「神とは何か」と聞かれました。彼は、「一日、猶予を下さい」と言いました。翌日、再び、呼ばれましたが、「二日、猶予を下さい」と答えました。 そしてついに最後に、「王様、神とは何か、と考えれば考えるほど、わからなくなります」と言いました。
神を知ることにおいて、人間の知恵は空しいものです。有限な人間は、神をきわめることができません。 新約聖書のコリントの信徒への手紙一、1章21節に、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」とあります。
この世の知恵は、便利な文明社会をもたらしました。私の幼い頃には、携帯電話、パソコンの影形もありませんでした。確かに、生活は便利になりました。しかし、人間の知恵は、国家間の問題、また親子、夫婦の問題を解決してきたでしょうか。 人生の空しさ、死への恐れ、絶望感を乗り越えたでしょうか。 ノー、であります。事態は、ますます複雑化してきています。
人間の知恵は、神を知ることができません。では、どうしたらよいでしょうか。 私たちは、神様が助けてくださらなければ、神様がご自身について教えて下さらなければ、神を知ることはできません。
この神様がご自身を、私達に教え示されることを、「啓示」といいます。
「啓示」とは、開き示すという意味です。 神ご自身が、ご自分のことを教えて下さることです。
旧約聖書エレミヤ書9章23,24節(口語訳)には次のように書かれています。
「主はこういわれる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。 力ある人はその力を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富をほこってはならない。誇る者は、これを誇りとせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる』
わたしたちは、どのようにすれば神様を知ることができるでしょうか。
1)まず第一に、「自然界を通して、神はご自身を示してくださいます」
エレン・ホワイトは、「自然は神の愛を啓示しています」と述べています。自然を通して、私たちは神様の愛と、やさしい配慮に触れることができます。 ヨブ記12章7-9節には、空の鳥も、野の草木も、創造主なる神がおられることを教えてくれる、と書かれています。
ブラジルにいるときに、一人旅をしました。ブラジルは、実に広大な国土をもっています。
日本の23倍もあります。何もない広大なところを、2日も3日も、バスで行きます。休憩時間に静かに沈む夕日を眺めたことがあります。 雄大なその自然の中で、自分は一人ではないという安心感を感じたのを覚えています。
この宗教週間のために、東京からアクアラインをわたって、千葉に入ったとき、自然が豊なところに入ったんだな、ということが分かりました。
人間が作ったものに囲まれて生きるか、それとも、自然の中で生きるか、これは大きな違いです。
人類で始めて宇宙飛行を成し遂げた、(旧)ソビエト連邦のガガーリンが語ったといわれる「地球は青かった」は有名ですが、欧米では、別の言葉が良く知られています。それは、「宇宙にも神はいなかった!」という言葉です。これは、キリスト教の背景のある欧米の人々に、少なからぬ衝撃を与えました。
その後、宇宙に行った多くの人は、創造主を信じるようになりました。月には、動くものは一切存在しません。月には、生命はないのです。 ですから、月から帰ると、動くもの、命あるものの素晴らしさを感じたそうです。あのゴキブリさえ、可愛く感じたそうです。
命ある自然を見るとき、その背後にある創造主なる神の存在を知るのです。誰から目的をもって造り、保っていることを知るのです。
2)神を知る方法の二番目は、「聖書」です。
神様を信じて聖書を読むとき、神様はご自身を示してくださいます。(箴言2:1-5)
聖書を読み、学ぶことは、宝探しのようなものです。 ものすごい宝が、聖書の中に埋まっています。
それを掘り当て、神様と出会い、神様を知ることができます。
今朝、お話したダグ・バチェラーもその一人です。一人や二人ではありません。聖書を読んで変えられた人は無数にいます。 私もその一人です。 そして皆さんも、その一人になれるのです。そして確かな目的をもって生きる力が与えられます。
3)神はまた、「苦難」(苦しみ)という経験を通して、ご自分を示して下さいます。
私たちが神様と出会うために、あえて苦しみを許されることがあります。パウル・トゥルニエという人は、「人生で花開くために、どうしても通らなければならない経験は、苦しむことである」と述べています。
聖書にも、苦しみにあったことは、わたしに良いことです、という言葉があります。
浅野順一(日本の優れた旧約学者の一人)は、浅野セメントの御曹司として、将来が約束されていました。しかし、彼は約束された将来を捨てて、信仰の道を選び、牧師になりました。この人が、『ヨブ記、~その今日的意義~』という本を書いておられます。
ヨブ(旧約聖書のヨブ記の主人公)は、一日のうちに、10人の子供を失い、財産すべてを失うという試練に会います。その上、自分の全身にできものができ、奥さんから「神を呪って死になさい」と言われます。 しかし、彼の神への信頼は、揺らぎませんでした。
この本の中の解説の中で、次のように述べておられます。
「不幸ということは、われわれの生活や心の中に開いている穴のようなものでありはしないか。その穴が大きい場合もあり小さい場合もあり、深くもあり浅くもある。穴の種類や性質も人ひとによって違うであろう。われわれは自分の生活や心に穴のあいていることは不愉快であり、痛みを感ぜざるを得ない。
穴は早く埋めてしまわなければならぬ。・・・しかし穴を埋めることだけに気をとられ、その穴から何が見えるか、穴の空いていない者には見えないあるものが見えるのではないか・・・」
聖書の宗教は、穴を埋めると同時に、その穴を通して何かを見ることを教えるのです。
(病気や苦しみなどの)人生の中の穴を必死に埋めようとします。それも大事なことですが、もっと大事なことは、その穴からしか見えないもの、それをじっと見ることです。普段は見えないものが、穴を通して見えるのです。
ヨブは、その穴から、見るべきものを見たのです。(ヨブ記42:5)
私たちの人生にも、ぼっかりと穴があいた状態があるかもしれません。しかしそれは、神様の機会なのです。その穴からしか見えないものがる、それをしっかり見たいと思います。
4)神は、イエス・キリストを通してご自身を示して下さいました。
キリストは、「わたしを見た者は、父を見たのである」と言われました。
歴史上のキリストの存在を否定する人は、いないでしょう。 しかし、罪からの救い主であられるキリストを受け入れる人は多くはありません。 このキリストこそが、神の子であり、救い主なのです。
キリストは、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父をみている」と言われました(ヨハネによる福音書14:7)。
この言葉を聞いた弟子のピリポは、「そうおっしゃらずに、父を見せて下さい」と言いました。それに対して、キリストが言われた言葉が次の9節の言葉です。「私を見た者は、父を見たのだ」
聖書は、キリストを証ししています。そしてキリストを見た人は、父(神)を見たのです。
さとうさだきち、というクリスチャンの先生が、大学で講演しました。
講演後、学生が質問しました、「先生のお話はよく分かりました。人生に宗教が必要だということも。一つ御願いを言わせてもらえれば、人間が信じるべき、その神様を私に見せて下さい」と。
すると先生はあ、こう答えました。「よし、見せてやる。その前に、僕も聞きたいことがある。君を見せてくれ」
その青年は、自分の顔(鼻)を指したり、胸を指したり、頭から足までが自分であることを示そうとしましたが、最後にギブアップしました、「私は、私自身を見せることはできません」神様も同じです。 それでも、神様は、自然を通し、聖書を通し、キリストを通してご自身の存在を私たちに現しておられます。
最後に旧約聖書、エレミヤ書31章3節の言葉を見てみましょう。
「遠くから、主はわたしに現れた。
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、
変わることなく慈しみを注ぐ」
遠くから、というのは、物理的な距離を言っているのではありません。
思いもしない時、思いがけない方法で、神の方からあなたにあらわれて下さる。
そして、どんなにあなたを愛しているか、神のほうから現れて示して下さるのです。
考えもしない方法で。
求める者には、必ず現れて、出会ってくださいます。
そして、どんなにかあなたを愛しているかを示して下さるのです。
三育学院教会牧師室(内線236)
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春季宗教週間1
牧師室&CMCニュース16号
~ 宗教週間特集号① 朝夕のお話から ~
ゴールデンウィーク明けの本日、5月11日(月)より、16日(土9の安息日までの春季宗教週間が開始されました。
今回の宗教週間は、現在、SDA天沼キリスト教会・主任牧師の稲田 勤先生がご奉仕下さいます。総テーマは、『神との出会い』です。
今回も、実習やお仕事など、色々な都合で参加できない方々のために、お話の「要約」~できるだけ詳しい要約~を、お伝えできたら、と思っております。
◇5月11日(月) 春季宗教週間第1日目 朝
◎今朝の題:「神を知るということ」
ただいまご紹介をして頂きましたが、私は神学科に2度入学しました。1度目は、5月の連休前に自主退学しました。こんな私が母校の宗教週間に講師として招かれたことに、神様の不思議なわざを思います。
学生時代は、「聞かされている」という感じで講師のお話を聞いていた時期もありましたが、それでも、お話の中から、学ぶことができたことも多くありました。
今回11回のお話をさせて頂きますが、その中から、1つでも、皆さんが人生を生きていく上で糧をなることができれば、と願っています。
作家の村上 龍さんが、『盾:シールド』という、大人のための絵本をかいておられます。
絵は、はまのゆかさんが書いて、村上さんが文章を書いているわけですが、この本に、小島と木島という二人の主人公が登場します。 ふたりは幼少期からの友達ですが、それぞれ別の道を歩むことになります。
彼らが少年時代に、名もない老人から聞いた言葉がありました。それは、「人間には、盾が必要なんだ」という言葉でした。幼い二人には、その意味がよくわかりませんでした。
しかし、不思議にも、それはふたりの心にとどまっていました。
二人のうち、「良い子」の小島は、挫折を経験し、問題児だった木島は、勝ち組の人生を送るようになります。
そしてやがて、二人に転機が訪れます。小島は、犬の訓練士になります。一方、木島は、挫折し、仕事も家庭も財産もすべてを失い、自殺さえ考え、落胆のうちに郷里へかえります。
そこで二人は再会します。お互いの経験を分かち合いながら、あの老人の語った「盾」の意味がようやくわかってきました。
村上さんは、この本をとおして、どんなメッセージを発信したかったのでしょうか。
彼は、次のように書いています。
「人間は傷つきやすく、やわらかいコアな部分をもつ。そんな人間は、色々なやり方で自分を守ろうとしている。その手段を盾という言葉で表した。自分は、どんな盾をもっているか、あるいは持とうとしているか、この絵本を通して考えてほしい」と。
本当の意味で、私達を守る「盾」とは何でしょうか?
旧約聖書の詩編28編7節には、「主はわたしの力、わたしの盾、・・・主の助けを得て
わたしの心は喜び躍ります」と書かれています。 いにしえの信仰者の告白です。
弱い人間を支えて下さる方は、聖書の真の神以外にはありません。この神と出会ってほしいのです。
人生には、知らずにいたために、損をすることがあります。そしてそれが命の危険にかかわることがあります。
数年前、イスラエルとパレスチナが武力の小競り合いをしていた時に、何も知らないにほんのバックパッカーのカップルが、エルサレムの教会に見物にやってきました。厳重な警備をしていた兵士は、彼らを見て、大変驚きました。
こんな調子だから、日本人は、平和ボケしているといわれるのではないかと思います。ひとつ間違えば、戦争に巻き込まれて命を落とす危険がありました。
人間は、科学を進歩させ、今の便利な生活を享受しています。
私には、小学生の娘がいますが、同級生の習い事の多さにびっくりしています。水泳、習字、英語などなど。 競争社会を生き抜くために、みんな必死になっています。
しかし、本当に知るべきものを知り、得るべきものを得ているでしょうか。
詩篇46篇10節を口語訳で見てみますと、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と書かれています。
現代は、静まることが本当に少ないのではないでしょうか。常に携帯がなっていたり、音楽やおしゃべりをしたり。 しかし、聖書は、「静まって」神の語りかけを聞きなさいと言うのです。
今からでも、是非真剣に考えてほしいのです。あとで悔やむことがないように。
聖書は、本当に愚かな者は、「神はいない」と言う、と述べています。勉強ができないとか、学位のあるなしではありません。 真の愚かさは、神などいない、と考えることだというのです。
旧約聖書のコヘレトの言葉12章1節に、「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ」と神は言われます。
皆さんの多くの方々は、青春真っ只中です。人生で一番いい時です。
四季にたとえれば、人生の最も美しく、また活動的な、一番良い時です。
やがて、試練のとき、年を重ねてオタオタしないために、人生の円熟期に、何の楽しみもないと言うようなことがないように、と勧めているのです。
神を知らないと、何を失うか、どんな損失を経験するか。それについて3つ考えてみたいと思います。
1)まず第一に、神を知らないと、人生の真の目的を知る事ができない、ということです。
これは、誰にとっても、大切なことです。 現代は、目的喪失時代と言われます。多くの人が何のためい生きているのか考えずに生活しています。 五木寛之という人が、『人生の目的』という本と書きました。彼は、その中で、「人生の目的はない」といいます。 最後まで読んでみると、結局、人生の目的は、わからない、ということなのでしょう。
皆さん、これは、職業の選択とは違います。もっと根本的なものです。「何のために生きるのか」この質問への応えは、「神を知ること」ということです。
古代イスラエルの3代目の王であったソロモンは、知恵を求めて神に喜ばれ、知恵のみならず何でも手に入れ、ほしいままに生き、快楽に身を任せて生きた人でした。
コヘレトの言葉の1章2節で、「なんという空しさ、何という空しさ、すべては空しい」と彼は述べています。
旧約聖書は、ヘブル語で書かれていますが、「空しい」(口語訳では、「空」)という言葉は、ヘブル語で最上級の形で書かれています。つまり、これ以上ない、最高の空、ということです。
仏教や哲学にも、人生の無常が教えられています。なぜでしょうか。 それは、人間が目に見えない永遠を求める心を持っているということなのです。
さきほどのコヘレトの言葉は、口語訳では伝道の書ですが、3章11節には、「神は、人の心に永遠を思う思いを授けられた」と書かれています。
神は、最初から、人の心に永遠を求める心を授けられたのです。目に見えない世界に目を向けること、永遠を求める心、-言いかえれば、神を求める心が、皆さん一人一人の心に与えられているということです。
神は、人の心に、神にしか埋めることのできない空洞を持っておられます。何をもってその穴を埋めることができるでしょうか。 その穴を埋めるのは、神のみです。 神を知らなければ、心の空洞が埋まることはありません。 ロシアの一人の小説家が、人生の空しさを覚え、27歳のとき、地下鉄に乗っていました。失意と空しさを感じ、将来への希望もなく・・・。 その時、突然、あるフレーズが目の前に見えました。「神がおられないなら、人生には何の意味もない」。 そのフレーズが心に刺さりました。何度も、その言葉を唱えているうちに、はじめて希望の光が見えました。
神なしの人生は、空しいものです。 しかし、神がおられて、私たちの人生を導いておられることを知る時、目的が生まれます。
2)神を知らないと失うものの2番目は、「善」です。
人類最初の死は、殺人によるものでした。アダムの2番目の息子のアベルは、兄カインに殺されるという形で、命を失いました。
動物を含めて、人間ほど、仲間同士で殺しあうものはありません。
新約聖書のローマの信徒への手紙1章28-31節に、神を認めない人間の姿が描かれています。
「あらゆる不義、不和、欺き、邪念・・陰口・・・・」、 一つや二つは、自分の心にひそむ思いではないでしょうか。 私達は、自分の心に隠し持っているのです。神を知らなければ、このような思いがどんどん大きくなっていきます。 そして言葉や行いにあらわれます。
ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたために、カトリック教会から自説の撤回を要求されました。
裁判にかけられ、死んだときも、信者の墓に葬られませんでした。彼の名誉が回復したのは300年もあとのことでした。
彼は、「神なき知育(教育)は悪魔を作る」と言いました。これは、毎日のように起こる諸事件が証明しています。
3)三つ目は、命にかかわる重大事だということです。
新約聖書のヨハネによる福音書17章3節に、「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたと、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」と、キリストご自身が語っておられます。
永遠の命とは、神を知ること、またキリストを知ること、なぜ、これが一緒に出てくるのでしょう。
それは、今夕、お話したいと思います。
イエス・キリストは、見えない神を示すために2000年前に来られました。イエスによって神の愛、神の救いが明らかにされました。 そのイエスによって神をしることができるのです。
このみ言葉のポイントは、神「について」、キリスト「について」とは言われていないということです。 神「を」、キリスト「を」知る、とあります。 この「知る」という言葉は、夫婦が性的に一体となるという意味もあります。
神との関係がなくなることは、永遠の命を失うことになるのです。
ダグ・バチェラーという人がいました。
恵まれた環境に生まれました。父親は富豪で、母親は、ハリウッドの名うてのプロデューサーでした。
しかし、ダグの心は、人生の空しさでいっぱいでした。彼は、自分に失望し、家を飛び出して、カリフォルニアに行き、山の中の洞窟で生活するようになります。 やがて麻薬におぼれ、ゴミをあさる生活に堕ちます。 しかし、不思議なことに、あの洞窟の中に聖書が置いてあったのを発見します。
そこには「1972年○月○日、生まれ変わる。 この聖書を読んだ人が神に出会い、生まれ変わるように祈る」と書かれていました。
やがて、ダグは、むさぼるように、その聖書を読み始めあす。暗がりの中で、神を見出すのです。
闇の人生から光へと移ります。 彼は、人生の意味と目的を見出し、今は、伝道者として活躍しています。
私も、神と出会い、イエスを知りました。
神を知り、神と出会うことは、人生の大部分です。
ある牧師の妻が40代で亡くなりました。 その時、牧師は、「人生の目的が神を知ることなら、妻の人生は、すでに完成していたと思う」と言いました。
皆さんは神と出会っているでしょうか、神を知っていますか? 皆さんが、この学校に導かれたのはそのためであったかも知れません。
誰もが神と出会う必要があります。 求めれば必ず出会うことができます。なぜなら、神ご自身も皆さんに出会うことを求めておられるからです。
使徒言行録17章27節を読んでみましょう。
この言葉のあとに、「私たちは、神のうちに生き、動き、存在しているのである」と書かれています。
この神と出会うことが、人生を意味あるものとするのです。
皆さんも、この神と出会ってほしいと願っています。
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